人間の狂気
前回の投稿で
いいこをやめようと宣言した私。
そして、カインという本にはこんな奇妙なことがいてあった。「人に迷惑をかける練習をしよう」と。
必要以上に周りのプレッシャーを感じることなく、優先席も堂々と座ったり、ドトールやスタバでも片付けずにテーブルの上に物をゴミや食器を置きっぱなしにしたりと、一般的には悪と呼ばれる行動をしろと言うのだ。
私にとっては、奇妙以外のなんでもなかった。
親には人には迷惑をかけるなと言われ、大抵の啓発本だって、ありがとうを言おう、人の喜ぶことをしよう、徳を積もう、そんな言葉が蔓延る世の中だというのに。
あえて逆のことをしろと書いてある。
まさか、これが正しい姿と書いているわけではないと思う、けれど私たちのような「いいこ」が染み付いている人々にとってそういったことをすることでいいこから抜け出す訓練ができるというのだ。
まさに目から鱗とはこのことのようだった。
私は恋人が好き(なはず)だけれど、鬱陶しくて嫌いだ。みんな自分の良いようにあなたのためだといって結局自分の自己満足を満たしたいだけなのだから。
なんでそんな冷酷なことがいえるのかと反論があるかもしれない。
なんで人の優しさをそんなうがった見方で無下にするんだと言われるかもしれない。
でも私にとってはそういった優しさや褒め言葉に気持ち悪さや恥ずかしさを感じる。
なんでかというわれると幼少期に親が私に褒めたことはテストの点数しかなかった。
容姿だったり私の個性については興味がなかった。またどんな人と付き合っているかそんなことも興味がなかった。わたしが父親や母親と近い年齢の人たちと付き合っていようと…
その話はまた追々語るとして、
私は普通になりたいと願いながら、私はその普通からみるみるうちにに逸脱し、堕落し、壊れた私といいこの私の2つの顔を持つようになった。
大人になった今も発作的に苦しくなることはあるけれど、ある程度自分の気持ちを落ち着かせることができるようになった。
今日も会社に出社し、おはようございます、とニコニコと”いいこ”な私が上司を迎える一方で、帰ってから恋人の相手をするのが億劫だと一人にしてほしいと嘆く自分がオセロのコマのように背中合わせしている。
そんな自分の一貫性のなさに気持ち悪さを感じつつも、これが自分だ仕方ないと認めるしかない。
そう、これが自分なのだから。